
小諸で切られた御神木の挿し木をした。駐車場に残された枝から40本少しの穂枝を採る事が出来た。まだまだ寒いので梱包材(木枠)で簡易温室も作った。【2009/03/01】@小諸・町屋館

僕の仲間から送られてきた数枚の写真。メールにはこう書かれていた「小諸市にある某酒造敷地内にある神社の御神木が切られた。樹齢400年、その場所が小諸城内であったときからそこにあり、まちを見守ってきた樹です。理由は、近所の一部の方から落ち葉に対して苦情があること、商工会議所の建物が建つともう切れなくなること。とうかがっています。NPOとして景観計画に位置づけ、みんなで守る運動をしようと思っていた矢先でした。小諸を見守る神様をうしなったようで、小諸の行く末が心配です。」なんと悲しいニュースだろうか。「まちの哲学,まちの思想」そして,まちに暮らすに大切な「信じる気持」,「許す優しさ」が消えて行く気がしてなりません。【2009/02/25】


工事中の小学校旧校舎(修復計画)校庭にあるメタセコイヤ,ヒマラヤスギの伐採作業が始まった。今日の大切な仕事は,この伐採樹木の年齢を知る事,伐採された頂枝から挿し木を得る事。早速,切株の年輪を数える。メタセコイヤが42〜45年生,ヒマラヤスギが65〜75(70?)年生と判った。ヒマラヤスギに関しては,ほぼ校舎の完成(1935年)と同じ頃に植えられたと判断してよいだろう。メタセコイヤに関してはずっと後に植栽されたことが判った。挿し木作業は,小学校4年生,5年生の約50名が参加してくれた。急ながらも町長の参加も嬉しいことだった。70年経った今,旧校舎の修復に伴い,親しまれてきた樹木を伐採した。来年,旧校舎の本格的な活用が始まり,今日の5年生達は卒業する。そのとき元気に育った苗を植えてもらおうと思う。【2009/02/20】Photo(上)町長参加で挿し木作業。Photo(中)メタセコイヤの切株,中心が赤印,10年毎に黄印,最後に白印。約45年生ぐらい。Photo(下)ヒマラヤスギの切株,中心が赤印,10年毎に黄印,最後に白印。約65(〜75)年生ぐらい。2種類の断面はそれぞれの木の特徴を良く表している。
昨年より芦屋で個人のお庭の工事が始まっている。机上での設計作業がおわり実際に工事が始まると,設計監理という作業が必要。設計監理とは,設計時に想定出来ない現場の状況,数々の変更,材料の最終確認などを含め,いわば「庭づくりの監修」作業。今日はテラスとなる箇所に鉄平石を張る作業を見る。工業製品と異なり,現場に届く鉄平石(自然石)は,形ばらばら,厚さばらばら(この石は層状に剥離するから),色の変化も大きい。このような自然の素材を扱う時の出来不出来は,最後は職人のセンスに左右される部分が大きい。この現場の石張り職人達の作業を観ていると,実に手際がいい,石の配分も良い,目地の入れ方も申し分ない。形がバラバラの石を手に取り,据える場所に仮置きをして,適切な形にハンマーで割り,欠けさせ,張っていく。その石を割る作業は,時には数ミリ単位での調整。現場では設計者が職人を,職人が設計者を観ている。出来がいい時は良い,悪い時は悪いと,明確な指示が必要となる。場合によっては職人が設計者を見定めする状況もある。なかなか緊張する時間。でもここの踏ん張り一つで仕上がりに大きな差が付く。良い職人と出会うと本当に嬉しい。【2009/02/12】
奈良在住のアーボリスト・小林君からエッセイが届いた。今回はイチョウの話し。
現在,滋賀県の古い小学校(1935年築)の旧校舎の修復・保存活用計画に関っている。かつては東洋一と呼ばれたほどの立派な校舎である。その当時において日本全国さがしてもどこにもなかったであろう,テニスコート,囲み型の庭園,噴水修景池,学習菜園,厩舎などが整備されていた。庭には,当時まだ珍しかったであろうヒマラヤスギやメタセコイヤの大木も育っている。今回の改修のための造園計画で僕は,これらの樹木の現状と今後,建物と起こりうるであろう多くの問題点を考え,伐採する判断をした。これには,小学校OBであるご年配の方々の猛反対にあった。小さな頃から毎日,見慣れた大きな樹木が伐られてしまうのだからもっともな事だ。しかし,歴代の写真を見てみるとこれらの樹木は,創建当初のものばかりではなく,植えられたり伐られたりしてきたようだ。しかもそこからは,この2種の樹木の扱いを判らずして植えてきた経緯が見える。つまり日本においてはまだ成長の早さが判らず,建物のごく近くに植えてしまっていた。ところがその成長は,予想をはるかに超えたものだったようだ。そこで今回の校舎保存計画としてかつての先輩造園家が計画して植えたもの(結果として今の問題点を生み出すこととなってしまった)である以上,将来おなじ問題を起こさせないために今かかわる造園家が新たな判断をする。誰かがきっちりと判断しなくてはならない。僕は「伐る」という判断とその木の「世継ぎ」(伐採する木から挿し木苗を得る)を育て,植える場所を配慮し風景を再現することとした。無論,そんな事で伐採反対の方々の気持は収まらないが,一応の理解は頂けた。後はこちらが思う様に「世継ぎ」づくりが出来るのか。そこで植木屋を通じて挿し木の専門家に指導をお願いした。本日,わざわざ宝塚から駆けつけてくれたのが専門家Sさん。Sさんに教えてもらった挿し木の一番大切なポイントは,見極めだと言う。枝一本を見た時に,3年目の部位,2年目の部位,そして今年伸びた1年目の部位が判る。この2年目と3年目の境で切ると言うのだ。(つまり挿し木に使うのは1年目と2年目の枝)これを見誤ると発根がしにくいと言う。そして後は水やり。何事にも「見極め」は大切だ。さて挿し木の指導が終わった後,Sさんが僕に尋ねた「失礼ですがK研究室ご出身ですか?」。話しを聞くとSさんは,僕が大学時代在籍していたK研究室の3年後輩で,研究室の資料の中にあった僕の名前を覚えていたと言う。これには驚いた。予期せぬ研究室の後輩との出会いに,「世継ぎづくり」は上手くいきそうだと思った。「見極め」に加えて「ご縁」が大切。「縁」と言えば「ふち」である,これは「際」とも言える。「際」と「極」どこかでつながっている。【2009/02/09】Photo:ヒマラヤスギの挿し木の手ほどきを受ける関係者
近江兄弟社小学校の芝生の中庭は,子ども達に人気の場所。人気があるがゆえに時々休ませないと疲れてしまう。今日は芝生広場の周りにロープが張られ,「お願い事」が書かれていた。何でもないあたり前のことだが感心した。芝生の広場を提案すると,必ず管理が大変である,養生期間が必要だ(そのあいだ使えない)といった課題・問題(?)が起る。だからもっと簡易なものはないかと聞かれてしまう,だから止めましょうと言われることも少なくない。芝生の空間が子ども達に与える利点は多い,しかしそれと同じぐらい手入れが必要なのも事実。この使う・休ませるのメリハリのある使い方がなかなか出来ない。今日はこんなあたり前のことに感心してしまった。管理のためにはもう少し冒険的試みをしても良い,子どもたちに割りばしを配り,一人100回芝生の地面を刺せば良い。きっと良いエアレーションが出来るに違いない。
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。昨年のブログを振り返ってみると,庭づくりの話しよりもその周辺の話しがほとんどと気づく。単に庭づくりと言えどもさまざまな事柄に関係しているものなのだと思った。これは話題に欠ける自己弁護か。さて,ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのシードボールを見に行く。さぞや元気に成長しているものと思うと,実はすっかり大きく成長し,蕾も沢山上がってきた水仙がぺったんこになっている。年末に降った雪が原因。ただしシードボールの草の若葉は元気である。周囲の水仙は,成長が悪いので積雪の影響はほとんどない様子。シードボールの置かれた場所の地中に偶然眠っていた水仙がひときわよく成長したと思っていたがこんなこともあるものだ。先にうまく成長したものが必ずしも勝者と言う訳ではなさそうだ。
自宅近くの大きなお屋敷の横を通ると新年を迎えるためお庭から庭師のハサミの音が聞こえていた。外塀の犬矢来(いぬやらい)も治したばかり。古い竹材の中に混じる青竹の部位がなかなかきれいだ。悪くなった部位だけを交換し続ける。全部を新しい青竹に変えてしまうよりもなんだかこちらの方が「遊び」や「ゆとり」そして「品」のようなものを感じる。こんなつぎはぎの模様がきれいなのも本物の材料としっかりした仕事だからこそ、プラスチック竹ではこうはいかない。
ボーダレスアートミュジアム・NO-MAの地域交流事業「泥団子プロジェクト/NI・WA=NO・MA」のまとめ展が先週から始まった。3回にわたるワークショップの様子と最後に描かれた絵が見れる。土をこねる、草を触れる、劇を演じる、音を楽しむ・・・近江八幡の素材:水・土・植物・空気がこれほどまでいろいろな可能性と楽しみを与えてくれたことに心より感謝。加えて忙しい日常業務の間にこれほどの展示をしてくれたSさんにも心より感謝。地域交流事業・・?と考えると、僕たちは人と人の交流をイメージするが、人と人に加え「自然との交流」、人を支えてきた「町を知るための工夫」を土台に据えることで魅力的になることが判った。近江八幡を訪れる観光客のみなさんにも是非見てもらいたい。「泥団子プロジェクト」のまとめ展をご覧になりたい方は、受付でひと言声かけをして下さい。→会期終了しました。【2008/12/25】


京都府立植物園の夜間観覧が先週末から始まった。昨日、仕事帰りに足をのばす。動物園では「ナイトサファリ」と称して動物の夜の生態を見せる試みもあるが、植物園の夜間観覧はあまり聞かない。夜間観覧は植物の生態を見せると言うより今回も例外ではなくイベント的(観月とか夜桜とかも含めて)なもので植物とはさほど関係はない。いわば集客のためのサイドメニューといったところか。イルミネーションのチープさやデザインの悪さはなんともしがたい、しかしゆっくり歩くうちにそんな思いはどこかに消えてしまった。暗闇を見ながらゆっくり歩く、嫌な雑音のない場所を歩く、しっとりとした空気の中を歩く・・・そんな時間の中から夜の植物の様子がよく判ったからだ。つまり動物と違って全くといって良いほど活動をしていない。昼間のような植物達のざわめきが感じられないのだ。やっぱり太陽光をエネルギーに変えて生きている生きものだと言うことが判る。入園料は200円、街の中でゆっくりと暗闇を歩ける時間は貴重でお買い得か。しかも温室の入館は特別に無料。外を歩いて冷えた体に温室のほんのりとした暖かさは格別。特別夜間観覧:12月13日(土曜日)から23日(火曜日)毎晩17時30分〜20時(入園19時30分)

仕事帰りに近くの岡崎公園を散歩する。昨日とはうってかわって肌寒い雨天。今日の雨で紅葉する樹々の下にそれぞれの色鮮やかな円模様が出来上がっている、落葉が雨で濡れて飛ばないので雨は雨でいい。トウカエデの並木でおもしろものを見つける。トウカエデはきれいな紅葉で公園や街路樹ではよく使われる、そのトウカエデの並木の中に一本だけ黄色の葉をつけたトウカエデがあった。地面に出来た紅色の円模様に一本だけ黄色の円模様。同じ種類の木なのにこれだけ色が違う。これも木の個性(*1)だろうか。普段、夏や冬には気づかない木の個体・特徴を見ることができた。だったらトウカエデの並木に紅葉する個体と黄葉する個体を交互に植えると秋におもしろい季節変化が楽しめるかなとも思った。他の樹木でも、例えばシラカシは春の芽立ちに緑芽と赤芽の色違いがある、ユズリハは葉柄(よいへい:葉の付け根の軸の部分)に赤軸と青軸(あおじく)がある、このように同じ種類の木でも個性がある。ほかに「このミカンはすっぱい!」も木の個性。僕たちは木の種類ばかり気にして、木の個性を見ることが苦手なようだ。


夏前にNHKでイングリッシュガーデンの番組を放映していた、紹介された庭園の一つにコッツォルズ地方の「KIFTS GATE GARDEN」があった。この中で庭のオーナーのことばが「雑草は種をつけるまえにとらなければいけない」とナレーションで通訳された。確かにオーナーは「ここのWEED(=直訳だと雑草)は取り除かないといけない」と話している(英語では)。しかし、その雑草はオーナー自身がそこに植えた結果、旺盛な繁殖を行っている植物である。(実際に植物層の貧相な英国の自然においては雑草とて人為的に植えられたものがほとんどだ)そのような庭の歴史と背景を考えるとこのNHKのナレーションは適切でない。この場合は、「この草は庭のここのエリアで他の植物が生育するために取り除かなければいけない植物」もしくは「この草は他の草の生育にとって望ましくないので取り除かなければいけない」と訳されるべきである。これは実際の取材現場のプロデューサーまたは通訳の理解不足・勉強不足によるものかどうかは判らないが、もう少し視聴者に対して適切な表現をしてもらいたいと思った。(取材の中で、その雑草はどういうものか、どこから来たものか、なぜ必要ないのか・・・の裏をとることが大切)このちょっとしたあやまちが庭づくりにおいてある誤解を生み出すことになる。つまり「雑草はとらないといけない」。このような初歩的なミスが最近のTV番組に多い気がしてならない。一方、今年6月に世を去ったターシャ・チューダの取材では、この点については感心するばかりにきっちりと取材がされていた。こちらは気難し屋のターシャ・チューダとの長期にわたる取材の結果だと思う。やはり時間のなかでの共有体験がいいものづくりには欠かせないと言うことか。話しを庭にもどし「雑草の考え方」として、「ある特定の場所で自分が育てたい植物の生育を妨げるある種類の草花を雑草」と言うことにしよう。だからどのような草花も雑草となり得るし、また雑草は必ずしも取り除く必要は全く無いのである。
近江兄弟社学園のヴォーリズデイ(学園の文化祭的な行事)に参加させて頂いた。小学校保護者の方々と「草木染め工房」(*1)を開いた。メニューは二種類、「桜の秋葉染め」と「セイタカアワダチソウの花色染め」。桜の葉(学校の正門)とセイタカアワダチソウの花(近くの河川敷で採集)の煮汁(染液)で木綿のエコバックを染色した。媒染液の材料は小学校の水田から集めたワラ灰とミョウバン。材料は出来るだけ学校とその周辺で簡単に入手できるものにこだわった。結果は写真を見ての通り、材料も条件も同じなのに作者ごとに違う色と模様がとても面白い。(Photo : 黄色がセイタカアワダチソウ、赤茶色が桜葉。桜葉染めのバックは桜餅の香りがします。白い部分は輪ゴムで絞りをかけた部分。)
環境省が定める制度に環境カウンセラーというものがある。環境カウンセラーとは、市民活動や事業者の中での環境保全に関する専門的知識や豊富な経験を有し環境保全活動に関する助言などを行う人材として、環境省が審査を経て登録するものである。僕もこの環境カウンセラーの端くれで、今年度末までに更新をしなければならない。さてこの更新は3年毎必要であり、3年と言う期間中に少なくとも一度の研修を受けるべきとされている(以前は更新の必要条件だった)。今年も全国の主要な地域で様々なテーマで研修が行なわれているので自分が求める内容を選び研修を受ければいい。僕は「生物多様性」をテーマにした名古屋での研修に参加した。会場は「国際会議場」と称するすばらしい建物であり、参加者数に有り余るほど広く、時期外れの冷房を効かせた部屋が用意されていた。環境問題を語るには面白い。ところが、研修の内容はメインテーマである「生物多様性」はかすっただけ、環境カウンセラーに求められている専門知識を実践として活かす内容にそったものともほど遠いものだった。その内容は、行政の考える環境教育施設の紹介に終始した。施設の将来構想といえば既に海外の環境教育系の施設が相当前から実践しているものである。どこにも独創性や先進性が感じられない。研修とは名ばかりの表面的なものだったことは残念。唯一、地元の方の実践発表は面白かった。やはり紆余曲折の永年に渡る活動は興味深い。結局、研修の終了を待たずに会場を後にすることにした、研修担当係の方に名札とアンケート用紙を渡すと「ここで帰ってしまうと研修終了証書の発行が出来ませんよ・・・」と。そんな研修終了証書の発行のことよりも研修自体のあり方を見直してもらいたいと思った。それに僕は研修終了証書なんて興味がない(もちろん興味がある人もいるだろうけど)。それよりもこの機会に伊勢神宮の森に是非とも行っておきたかった・・・、名古屋から伊勢神宮に向う。十数年ぶりに訪ねた伊勢神宮の森と五十鈴川は、期待を裏切らないすばらしさだった。たった数時間だけだが紀伊山地を源にする川の流れと周囲の森を歩き、身を浸すことは、あのすばらしい国際会議場でいくら時間を使ったとしても得られないものがある。まさにここには「生物多様性」の森があった。つまらない机上の研修よりも、ここの森を歩くほうが質も実もある。おまけにおいしい「赤福」もある。【2008/11/05】@伊勢神宮・内宮・五十鈴川
11月24日にNO-MAで予定している「泥団子シリーズ」の年内最終回「泥団子で絵を描こう」の為に絵の具の材料となる草木の実を探した。いっぱいあるはずのクサギとヨウシュヤマゴボウの実がぜんぜん見つからない。あてをつけていた安土文芸の里周辺を歩くも収穫はない。これには正直まいった。五個荘町に入ってから少しずつ見つかるが依然として収量は少ない。この原因を考えた、まず一つ目:連休のために路傍の草刈りがされてしまった。そして二つ目:これらの草木は人の手が入った野山・林縁に真っ先に成長する種だ。ひょっとすると以前に増して林縁に人の手が入らなくなったためにこれらも生育することが難しくなったのか。やっと見つけた場所は道路のアスファルトの端っこだった。庭づくりの話から遠い話題だがご勘弁を。 【2008/11/02】Photo : ヨウシュヤマゴボウの実 @滋賀県能登川

シードボールから根が出てきてあわてて地面に並べてから2週間(*2)が経った。真っ先に根をボールの表面から出した種のほとんどは枯れてしまった、根が太陽に照らされ乾燥したからだ。一方、根をボールの中に伸ばし、あるいは根が本来の地面に達した種からはようやく双葉が出始めた。ご覧のようにシードボールは、「かいわれ団子」と化してきた。かちかちだった泥団子も発芽の力でひび割れがいっそう進んでいる。シードボールの下の土中に埋まっていたスイセンは地表を泥団子でおおわれ元気な感じ。【2008/10/28】
仕事で桂離宮に行く。前夜からの雨でお庭全体が瑞々しく大変に美しい。ここ桂離宮(*1)の庭はいろいろユニークな試みがされている。茶屋の窓からの風景、灯籠の形、園路の床材、飛び石の形などどれもすばらしい。このお庭を見るには事前に宮内庁に参観申し込み(*2)を提出しなければいけない。そこで今日は参観申請をせずに(*3)桂離宮の特異性が見れる庭を紹介。
「庭にはイノチの風がふく」に奈良から参加してくれた大学の後輩・木登り庭師(*1)小林君がフリーペーパーに掲載している樹木エッセイを送ってくれた。彼はイギリスで高木の維持管理手法を学んできた。街路樹に20mをはるかに超し、直径1m(歩行者の目の高さで)以上の太さの樹木があたり前に道路際や公園、歩道空間に生育するイギリスで生まれた技術。言い換えれば、木が成長することは新陳代謝の結果である枝葉を下に落とすことを意味する。それは歩行者にとって時として危険であり障害となる。そのために歩行者の安全を守るために木を伐るのではなく、ちゃんと手当(管理)を行うという考え方である。残念ながら日本ではこのように技術は発達しなかった。なぜなら歩行者の安全のために伐るからである。(悪いものは元から絶つと言う訳だ=木が悪者になっている)元々、木を伐って植える技術(この植える技術はすばらしい)があるからだ。しかし今の日本の街中から優れた(生態的も風景的にも)樹木がなくなる現状では、伐ることよりも残すことを優先すべきだ。今までここは大丈夫と思われていた神社・お寺の森にまでその危機はやってきている。さすがに木をバッサリと伐られることは少ないが落葉・落枝の苦情で(やむなく)立派な枝を切られることは日常的に行われている。見るも無惨な姿となった樹々が多くある。切れば良いってもんではない、元来、日本庭園で培われてきた切って育てる・育てるために切る考え方が現在では欠如している。悲しいことに今や神主や住職までもが落葉を嫌っている。そして造園屋は、庭木の剪定に関しては世界に誇る技を持っているが、自然樹木の管理に関しては全くといっていいほどできない。今こそ必要なのが小林君が学んできた技術、自然樹木・樹林の「手当・世話」をどう考えるかと言う技術と身体的な技である。


庭づくりは身近で小さな空間に植物の生態系(群落)を生み出すことだと思う。街の中で良く目にする単一植物(主に一年草)ばかりだと手間もかかるし、費用も馬鹿にならない。そこで多年度に渡って庭を楽しむためには宿根草(*1)を基本とする植物の群落を創ることが大切。参考書を見ると植物の組み合わせとか、色の組み合わせとか、いろいろと難しいことが書かれている。また本によっては、異なることが書かれていることもある。そんな時は、自分が育ててみたいと思う植物を植えてみれば良い。植物自身が成長していく中で他の植物との関係を生み出していく。それを見ながら新しい植物を加えたり、すでにある植物を引いたり(つまり足し算引き算をする)すればいい。その時のコツは、「まぜる」こと、ただし1株づつ交互に植えて混ぜるのではなく、同じ種類または同じ仲間を数株まとめて植え、かつその他の種類と混ぜること。言い換えれば同じ種類ごとに小さな「島」を造り、別の種類の「島」と重ねてゆくこと。混ぜることによって、庭に奥行きや変化が生まれる、病虫害も起こりにくい。【2008/10/04】


近江兄弟社小学校・風車づくりのワークショップ(WS)から出された4つの班案をまとめた。それぞれ工夫と悩みがかいまみれ面白い。これからより具体的な設計に入るために明日は全校生徒に4つの案を説明・人気投票を行う。このような形であってもWSに参加出来なかった子どもたちにも少しでも多くの機会をもって風車づくりに関って欲しいと思う。どれか一つにしぼると言うことではなく、全部のアイデアから良いところをいただこうと思う。【2008/10/02】