
NO-MAの庭のシードボールを見る。泥団子の間からもくもくと沸き立つ雲のようなみどりの若葉がきれいだ。良くみると3種類ぐらいの草花が発芽しているようだ。小さな泥団子が、小さな緑の団子へと変化し、それらが造る大きな緑の塊。これからの成長が面白そう。
【2008/10/31】

シードボールから根が出てきてあわてて地面に並べてから2週間(*2)が経った。真っ先に根をボールの表面から出した種のほとんどは枯れてしまった、根が太陽に照らされ乾燥したからだ。一方、根をボールの中に伸ばし、あるいは根が本来の地面に達した種からはようやく双葉が出始めた。ご覧のようにシードボールは、「かいわれ団子」と化してきた。かちかちだった泥団子も発芽の力でひび割れがいっそう進んでいる。シードボールの下の土中に埋まっていたスイセンは地表を泥団子でおおわれ元気な感じ。【2008/10/28】
仕事で桂離宮に行く。前夜からの雨でお庭全体が瑞々しく大変に美しい。ここ桂離宮(*1)の庭はいろいろユニークな試みがされている。茶屋の窓からの風景、灯籠の形、園路の床材、飛び石の形などどれもすばらしい。このお庭を見るには事前に宮内庁に参観申し込み(*2)を提出しなければいけない。そこで今日は参観申請をせずに(*3)桂離宮の特異性が見れる庭を紹介。
「庭にはイノチの風がふく」に奈良から参加してくれた大学の後輩・木登り庭師(*1)小林君がフリーペーパーに掲載している樹木エッセイを送ってくれた。彼はイギリスで高木の維持管理手法を学んできた。街路樹に20mをはるかに超し、直径1m(歩行者の目の高さで)以上の太さの樹木があたり前に道路際や公園、歩道空間に生育するイギリスで生まれた技術。言い換えれば、木が成長することは新陳代謝の結果である枝葉を下に落とすことを意味する。それは歩行者にとって時として危険であり障害となる。そのために歩行者の安全を守るために木を伐るのではなく、ちゃんと手当(管理)を行うという考え方である。残念ながら日本ではこのように技術は発達しなかった。なぜなら歩行者の安全のために伐るからである。(悪いものは元から絶つと言う訳だ=木が悪者になっている)元々、木を伐って植える技術(この植える技術はすばらしい)があるからだ。しかし今の日本の街中から優れた(生態的も風景的にも)樹木がなくなる現状では、伐ることよりも残すことを優先すべきだ。今までここは大丈夫と思われていた神社・お寺の森にまでその危機はやってきている。さすがに木をバッサリと伐られることは少ないが落葉・落枝の苦情で(やむなく)立派な枝を切られることは日常的に行われている。見るも無惨な姿となった樹々が多くある。切れば良いってもんではない、元来、日本庭園で培われてきた切って育てる・育てるために切る考え方が現在では欠如している。悲しいことに今や神主や住職までもが落葉を嫌っている。そして造園屋は、庭木の剪定に関しては世界に誇る技を持っているが、自然樹木の管理に関しては全くといっていいほどできない。今こそ必要なのが小林君が学んできた技術、自然樹木・樹林の「手当・世話」をどう考えるかと言う技術と身体的な技である。


庭づくりは身近で小さな空間に植物の生態系(群落)を生み出すことだと思う。街の中で良く目にする単一植物(主に一年草)ばかりだと手間もかかるし、費用も馬鹿にならない。そこで多年度に渡って庭を楽しむためには宿根草(*1)を基本とする植物の群落を創ることが大切。参考書を見ると植物の組み合わせとか、色の組み合わせとか、いろいろと難しいことが書かれている。また本によっては、異なることが書かれていることもある。そんな時は、自分が育ててみたいと思う植物を植えてみれば良い。植物自身が成長していく中で他の植物との関係を生み出していく。それを見ながら新しい植物を加えたり、すでにある植物を引いたり(つまり足し算引き算をする)すればいい。その時のコツは、「まぜる」こと、ただし1株づつ交互に植えて混ぜるのではなく、同じ種類または同じ仲間を数株まとめて植え、かつその他の種類と混ぜること。言い換えれば同じ種類ごとに小さな「島」を造り、別の種類の「島」と重ねてゆくこと。混ぜることによって、庭に奥行きや変化が生まれる、病虫害も起こりにくい。【2008/10/04】


近江兄弟社小学校・風車づくりのワークショップ(WS)から出された4つの班案をまとめた。それぞれ工夫と悩みがかいまみれ面白い。これからより具体的な設計に入るために明日は全校生徒に4つの案を説明・人気投票を行う。このような形であってもWSに参加出来なかった子どもたちにも少しでも多くの機会をもって風車づくりに関って欲しいと思う。どれか一つにしぼると言うことではなく、全部のアイデアから良いところをいただこうと思う。【2008/10/02】