今日は、滋賀県近江八幡市にあるボーダレス・アートミュージアムNO-MA地域交流事業「河童を探せ!」のワークショップ・第二回目。古い町屋を改装した「尾賀商店」のギャラリースペースが会場。ギャラリースペースといっても床は土間、戸板を外せば外と内の結界はあいまいになり、外の風が身持ち良く流れる。これも「ニワ」空間の一つである。今回の僕は、「河童と生きものが立たされてきた環境」について話した。ご一緒した京都橘大学の小暮さんは「河童と文化や地域」の話しをされた(http://kogure.exblog.jp/d2008-08-23)。それぞれの話しで共通だったのは「あたり前のものこそよく判っていない」、「あたり前のものこそ記録されずに消えていく」ということ。話し足りなかったこともあって、終わってからそのことばを反芻しているうちにふと「にわとり」が頭に浮かんだ。子どもの頃はあたり前のようにまわりにいた生きものである。またその名前「ニワトリ」の語源は、「庭にいる鳥」だからと言うことは、容易に想像される。調べてみるとやはり、「庭の鳥、庭にいる鳥」の意味の「ニハツトリ」で、「ニハツトリ」の連帯助詞「ツ」が落ちて変化した語とある。「ニハツトリ」に対する野生の鳥は、「ノツトリ(野つ鳥)」と呼ばれた。ではなぜ庭(ニワ)に鳥なのか? イギリスを始め他国の庭には、よくニワトリや鳩(ハト小屋)を目にする。彼らはペットであったり食材であったりするが、もう一つ生活に欠かせない大切な役割がある。そのワケは、鳥の糞は植物の三大栄養素「窒素、リン酸、カリ」を含み、即効性のある有機肥料として野菜づくり・庭づくりに容易に利用できるからだ。中でも多く含まれるリン酸は植物の芽や根、実などの成長に役立っている。生育初期に適度のリン酸が吸収されると、その後の生長を良好にし、病気に対する抵抗力も強くなる。現代では、糞害として迷惑な評価しかされないハトも古くから庭づくりには欠かせないものだった。今の生活の中では、よほど豊かな敷地でもないことには鳥のいる庭なんてなかなか造れなさそうだ。特に街中では「あたり前の庭づくり」すら難しいのである。しかし唯一、小学校ならそんな庭づくりも可能と言えそうだ。
余談ですが、子どもの頃に家にはいつも何らかの鳥が沢山(カモ、アヒル、スズメ、ムクドリ、ハト・・・多数)いた、そして彼らの食べ残した餌や糞を毎日、庭に蒔いていた。その所為だったのか庭の草木は年がら年中、生き生きしていた。そして(今想えば)時々、紅葉の葉っぱのお化けのような怪しげな草なんかも生えてきたのでした。
【2008/08/23】
2 件のコメント:
興味深いお話、ありがとうございました。日本の社会の大きな変わり目が関東大震災であり、戦争前の大政翼賛会であることもあわせてとても意味するものが大きいと思いました。われわれの日常の営みを社会科学的に見る視点と自然環境的に見る視点とその重なりにある文化人類学的に民俗学的にあぶりだされてくることを子どもに通じるようにわかちあうことができたと思います。そしてそれは単なる「学」としてでなく、生きる知恵として今後ますますボーダレスに楽しんでいけたらなあと思います。その意味でもニワについての考察は重要ですね。河合さんの遊び心が爆発していました。感謝
思えば「河童」の存在は「学」のためではなく、「生きる知恵」なのかも知れません。「学」にはボーダーがあっても「知恵」にはボーダーは有ってはいけない・・・なんてことを思いました。河童は生きています。
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