2009/09/23

絵画の中の植物/楢の小枝とドングリ


 京都市美術館に開催中のルーブル展(6/30〜9/27)を観に出かける。朝一番でゆっくりと観ようと出かけるがすでに長蛇の列(8時30分時点)、幸い早期開館でさほど待たずに入館。絵画を観るのは好きだが、実際はセンスも知識も乏しい僕は、いつも絵画の中に描かれている植物を観ることにしている。今回の展覧会で一番印象に残ったのが、「大工ヨセフ」(ラ・トゥール 1642年頃)だったがこれには植物の生体(木材だけ)は描かれていない。植物がはっきりと特徴的に描かれていたのが「エスランの聖母」(シモン・ヴーエ 1640~1650年)だった。聖母が幼児のキリストを抱きその右手で持っていたのが楢(なら・オーク=OAK)の小枝。葉の形はイングリッシュオーク(英国ナショナルトラストのシンボルマークになっている樹木)に似ている、まだ緑色のドングリが4個ついている。だから絵が描かれたのはちょうど日本の今の季節(9月)のようだ。なぜ聖母が楢(オーク)の小枝を持っているのか? これは小枝を振って赤ん坊のキリストをあやしているようでもある。紀元前から現代に至るまで世界中でもっとも生活に密接だった樹木が楢とも言われている。ヨーロッパの古い教会の構造材も楢材だった。他の風景画にもあきらかに楢であろうと思われる樹木や楢林が沢山描かれていた。17世紀当時ヨーロッパで人々の生活に欠かせない樹木であったことは確かなようだ。こんなことを思いながらもう一度「大工ヨセフ」観ると、ヨセフが加工していた材木が楢の木に見えてしかたが無い。いや絶対に楢(オーク)の木以外ありえないと思ってしまう。
インターネットで「楢」を検索して興味深いものがあった「ユダヤ( Judaea)のことを「楢太」とも書く」(ただしその根拠は記載無し)。キリスト教のことはほとんど知らないが、楢との関係をすこし調べてみることにする。写真は、購入した絵葉書より。2009/09/23

考察その1:キリストが生きた時代、生活のさまざまな場面にオーク(楢)が使われていた。家具、薪、樽(たる)、建築部材、そして大きい物は造船用材まで。だからキリストが処刑された十字架の素材もオーク(楢)が使われたことも十分考えられる。とすると聖母マリアがオークの小枝(しかもドングリ付き=種)で幼児キリストをあやしている・・・なんともキリストの将来を予感させるシーンではないか。(2009/10/11)

2009/09/11

紅そばの風景づくり


 蓼科(長野県)・八ヶ岳山麓のそば栽培地の沿道を「紅そば(赤い花のそば)」で「風景つかい」をしようと言うプロジェクトが始まった。「風景づくり」ではなく「・・・・つかい」、すでに優れた風景が広がる、ここの風景をもっと魅力的にしようとするもの。現在、信州・蓼科高原そば資料館・研究センター(右側の「つながり」でご覧下さい)で開催されている「そば講座」の参加者の方々に手伝って頂き「看板づくりワークショップ」を行なう。協力を蓼科八ヶ岳自然学校の方々にお願いする。唐松の丸太を板に製材し(これは製材所に頼む)、板の形を整えたり、表面のヤスリがけもした。次に墨で書いた文字を板面に写し、彫刻刀で彫り込む。2日間、時間に応じて参加者が「彫刻刀」を「バトン」がわりに文字を彫り込んだ。出来上がったものは、一文字ひともじ、参加者の個性が表れなかなか良い出来となった。後は文字部を白い塗料で書き、まわりを焦げ茶色に塗装をかける。9月27日には「紅そば」のお祭り、それまでに沿道にサインとして建て込む予定。延べ20人近い参加者のお陰でいい看板が出来そうだ。感謝。2009/09/06 @蓼科

2009/09/02

八幡山に天狗を探せ

 今日は、「八幡山に天狗を探せ!」の本番。40名近い参加者の子ども達と竹林の中の広場に天狗の巣を作り・天狗話を聞く。まずは「て・ん・ぐ・や・ま」を一人一言、これで五班の出来上がり。さっそくそれぞれ天狗の巣作り。我が班「ま」は8名、「本当に天狗は来るの?」と一緒の班の子ども。そんなこともいつしかどうでも良くなり、自分たちの巣作りに熱中・集中。背後で繰り広げられる他班の完成の声や音楽・・・誰もがついつい振り向いてしまうが、巣作りの手は止まらない。時間切れも含めて五班全部の巣が出来上がった。すごい、同じ素材を使いながらも、どれも違う構造を持つ。そこで「小暮天狗」(京都橘大学)の「天狗話」、巻物でするすると民話、妖怪、歴史、芸術・・・が展開。その内容はけっして簡単ではない、むずかしい漢字も多い・・・しかし、誰もがお話に巻かれてしまった?(きっと巻物は太くなったに違いない)天狗の巣作りも天狗話も理屈でなく、全身で面白く楽しめるから。ここでは、これをしたから云々の特典も成績はない、個人個人が自分の判断と発想で自分がすべきものづくりが楽しめた。理屈ではない、これでなくては面白くない。今まで、竹林に空いた広場がすっかり「天狗村」となり、周囲を見渡せば垂直に伸びた竹林を背景に、水平や斜め向いた竹、アーチを持った屋根など同じ竹が作り出す違う線がおもしろい、くわえて小暮先生の朱色の上着に子どもたちの赤い帽子が緑にアクセントを付ける。竹林と天狗巣、そして40数名の天狗達。天狗話の間に空が発した不思議な音・・・。ふと思い出した「天狗は来るの?」この時、天狗は子どもたちそのものだった。風ともなって野山や町を駆け巡る・・・時には想像を絶する音を出す、時間を飛び越す、まさに。竹林に生まれた新しい風景はものすごく魅力的だった。天狗は野山を駆け巡る・・・残念だけど今日の巣は片付けよう。天狗村が無くなった竹林広場はもとの何も無い空間に戻ってしまったが、不思議なことにすごくいとおしく魅力的な場所に思えてきた。すべては今日の数時間の出来事とは思えない・・・天狗は「時空を自由に駆け巡る」・・本当のようだ。天狗の「狗」は「狐」という意味もあると言う、今日ばかりはほんとに騙されたのかもしれない。多くの天狗に感謝。
 緑の環境に何かをくわえ・何かを差し引く、その少しの行為により、一段と魅力的な環境を創る・・・これはまさに「庭づくりのこころ」だ。
 写真の一番下が我が「ま」班の巣、八人の手で創り、八本の柱が全体を支えるから「八幡山天狗八つ手坊」と名付けられた。
Photo:2009/08/30 @八幡山、近江八幡